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中国人と日本人
みなさんこんにちは。

前回は中国の歴史について書かせて頂きましたが、
今回は少し日本の歴史について考えてみたいと思います。

まず中国の政権交代史を振り返ってみますと、日本と明らかに
違う特徴を見つけることができます。

例えば明から清への移行期にみられる、
明の遺臣による抵抗。

なかでも我が国でも国姓爺で有名な鄭成功は、明が清によって
滅ぼされた後もなお明の復興を諦めず、台湾にわたり20年に及ぶ
抵抗を続けました。

どうやら台湾という島は地理的に抵抗の拠点となりやすいらしく、
似通った状況が後世にもみられます。

即ち20世紀における国民党政府の台北遷都。

当時中国本土で共産党との内戦に敗れた蒋介石は、
国民党を率いて台湾に渡り、共産党によって建国された
中華人民共和国と対峙しました。

上記2つの台湾を拠点とした抵抗以外に、さらに大規模な抵抗を
試みた例として、漢の時代や(あの有名な)三国時代を挙げる
ことができます。

漢はBC 206年の建国で、滅亡はAD 220年となっていますが、
一時王莽(おうもう)が建てた新(しん)に国を奪われた
ことがあります。

王莽滅亡以降の漢を後漢と呼びますが、後漢の成立は前政権の
遺臣によるレジスタンスの成果ともいえるわけです。

さらに後漢滅亡後の三国時代。

三国のうちの一国である蜀は、漢による全土再統一を目指しますが、
これも広い意味で前政権の遺臣による抵抗といえるかもしれません。

このように中国の政権交代史をみてまいりますと、
意外なほど前政権による抵抗や復興活動がみられ、その点なか
なか興味深いものがあります。

一方で我が国はどうでしょうか。

日本は、その国土が東西に長く連なっているという地形的な
特色から、どうしても権力闘争は東西対決の形を取りやすい
ようですね。

例えば源氏と平氏の抗争。

最終的に平氏は源氏によって滅ぼされましたが、
その後平家による大規模な抵抗が行われた形跡はありません。

そこから時代は下って17世紀初頭。

日本史上最大の東西対決の構図は、関ヶ原の戦いから二度にわたる
大坂城の攻城戦できれいに決着してしまい、その後、豊臣の遺臣
による抵抗が行われることはありませんでした。

さらに時代は下って幕末。

最後の東西対決である戊辰戦争は、新政府軍側の勝利に終わり、
その後旧幕府軍による抵抗はみられせん。

僅かに戊辰戦争末期、函館の五稜郭での籠城戦を旧幕府軍による
抵抗ともみるこができますが、それすら僅か半年程度のできごとで、
その後は降伏開城し、総裁榎本武明に至ってはその後新政府の重職
を歴任しています。

このように我が国の政権交代の歴史を中国と比べますと、
随分と"あっさり感"が強く意外な感じすらしてしまいます。

もちろん両国の地形や国土の広さの違いも一つの理由で
しょうが、決してそれだけではなく、日本人が
長い間この国土で培ってきた気質のようなものが、この
"あっさり感"の背景にあるような気も致します。

私は政権交代の原動力になるのは、つまるところ国民一人一人
に鬱積した不満の集合体だと思っているのですが、我が国の場合、
どうも民族として固有に持っている傾斜が強く、一人一人にたまった
不満がある一定のレベルを超えると、「奔流のように流れ出し、
もう誰も止められない」といった様相になるのではないかと
思うわけです。

規模は小さいですが、今回の政権交代の背景にも同じもの
があるのではないでしょうか。

その点で今後の政治や経済の動きも注視が必要だと思いますし、
同時にまた大いに期待したい気持ちもあります。


では、今回はこのへんで。
(2009年10月6日)




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